書籍・雑誌

2010年1月 3日 (日)

年明け本

今年の年明け本は夏目漱石の『彼岸過迄』でした。それと、ダイベックの『シカゴ育ち』。前読んだ『僕はマゼランと旅した』がよかったからというのもあるんですが、それだけではなく、実は数日前に『柴田元幸のハイブ・リット』という本を図書館で借りたら、その中に「ペット・ミルク」という『シカゴ育ち』所収の短編が入っていたからです。でもまだこの短編の日本語訳は読んでません。『ハイブ・リット』には原文と日本語訳の両方が載っているのですが、どちらも読まずにコピーをとっておき、まずは原文朗読のCDを録音してランニングしながら何度も聴いているのです。それで原文を想像し、訳を想像してみる。要するに耳を鍛えたいんです! こういうCD付きの本て、英語の教材の中には結構あるんですが、だいたい発音がよすぎて現実離れしているんですね。ところがこれは作家本人による朗読なので、素人の読み手の発音。このほうがずっと耳が鍛えられるような気がします。意外とこういうの、他にないですよ。うまいことに「ペット・ミルク」は『シカゴ育ち』の最後の作品なので、それだけを残してあとは全部日本語で読み終えました。「冬のショパン」と「熱い氷」が好き。ダイベックは過ぎ去りし日常の余韻を書かせたら天下一品ですね。CDの彼の声は、作品に合ったいい雰囲気をしています。それにしても、これほど何度も何度も聴かないと味わうところまで聴き取れないなんて、情けない・・・。でもおかげで、最初の三行ぐらいは暗記してしまいました。

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2009年10月28日 (水)

来年のスケジュール帳は

GRANTAがWriters' Diaryっていうのを出したっていうから、つい買ってしまった。でも結局は今年もっとも後悔した買い物に! 来年のスケジュール帳はこれにしようとるんるんで待っていたのに・・・。だってねー2000円以上するけど、布張りでしっかりした感じだし、「ライターズ」っていうからにはいろんな情報が入っているだろうと思ったのよ~。買ったことはないけど、日本の「文藝手帳」だっていろいろ便利なお役立ち情報みたいのが入っているじゃないー? あれの英語版だと思ったの~。だからなんとなく仕事の役にも立つかなって。まあ、おしゃれなデザインなのはいいんだけど、だいいち大きすぎて持ち歩けないし、製本もいまいちだし、他の手帳と違う内容といえば、たくさんの作家の顔写真と短いプロフィールと作品がGRANTAのどの号にのったかが掲載されていること(つまり、作家はGRANTAの協力者のみ)、それから切り離して使えるポストカードが十枚ぐらいついていること。そのぐらい(プロフィールの内容は少し凝っていたけど・・・)。結局は、かっこつけすぎのレイモンド・カーヴァーの写真で笑うぐらいしかメリットはなかったー。まあいいやーとにかく使うだけ使うー。

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2009年10月11日 (日)

嵐が丘

  窓を開けると、大好きな金木犀の香りが漂ってくるのでご機嫌な今日この頃。
 『嵐が丘』、おもしろかったー! えてして濃厚な作品は消化不良になって胃もたれすることがあるのだが、今回はそうならなかった。人物にけっこう動きがあるのと、会話の口汚さがおもしろい(?)のとで、すいすい読めた。牧師の家に生まれ、静かに暮らしていた著者が、どうして悪口や罵倒のボキャブラリーをこれだけ豊富に持っていたのか、ぜひ知りたいところだな。でもこの作品、確か高校生のときに読みかけて挫折したことがある。たぶんヒースクリフとキャサリンの激情に就いていけなかったんだろう。なんでこんなに興奮してんの、なんて。追いつめられた人間のことを私が多少なりと想像できるようになったのは、三十代も後半になってからだ。それなのに、エミリー・ブロンテがこれを書いたときは、まだ二十代だったという。彼女は作家として認められないまま、処女作(!)の「嵐が丘」を出版した翌年に亡くなったそうな。これだけ激しいものを書くには相当のエネルギーが必要だったはずで、それこそ命を削って書いたに違いない。それを酷評されて、どれだけ落胆したか、想像しただけで胸が苦しくなってくる。結核で亡くなるまで医者を拒み続けたそうだが、生きる意欲さえ失ってしまったのかもしれない。30才の若さだったので、作品はこれ一つきりだ。
 閉ざされた荒涼とした土地の閉塞感て、実はいまの都会にもある。十年ほど前にお受験殺人があったとき、舞台となった界隈を見に行ったんだけれど、そのときに見た風景は不思議と嵐が丘に重なる。もちろんそこには広大なヒースも猟場もないのだけれど、閉塞感や荒涼とした感じや二項対立の図式が不気味なほど似ていたように思う。そういえば「グレート・ギャツビー」とも重ならないか? フィッツジェラルドは「嵐が丘」を意識していたのだろうか。不毛な土地に実る葡萄の果汁は濃く、不毛な土地に咲く薔薇は強い香りを放つ・・・というわけで、どういうわけか松本清張が読みたくなってきた(?)。最近は読む本がどれも「当たり」で嬉しい。

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2009年1月 3日 (土)

昨日ではないかもしれない世界

 明けましておめでとうございます。
 年末に読んだツヴァイクの『昨日の世界』はすばらしかった。去年読んだ本の中で、文句なくいちばん学ぶところが多かった本。第一次大戦と第二次大戦を生き抜いたユダヤ人ツヴァイクが、死の直前に人生をふりかえって書いた回顧録。彼はオーストリア生まれだが、第一次大戦中はスイスに、第二次大戦中はイギリスに逃れていたので、大戦の最悪の部分は目にしなかった。でも距離を置くことによって客観的に戦争とヨーロッパを見つめていた。
 大戦前、ヨーロッパは信じられないほど平和だった。人々は芸術や文化を愛し、貧困が少しずつ改善され、個人の権利がより多く保証され、科学や医学が進歩し、スポーツが盛んになった。誰もが暴力や野蛮はすでに過去のことだと思い、ずっと平和と安定が続くと信じていた。ツヴァイクは、くりかえしこの時代の大衆の「オプティミズム」について、つまり争いの火種や危険な動きに対して危機意識がなさすぎたことについて、触れている。加えて知識人やマスメディアがいかに戦争に与したか、怒りをこめて書いている。そのような状況の中で、ナチスは台頭していったのだった。
 驚くことに、戦前は外国に行くのに旅券も査証も必要なかったそうである。いったいいつからどういう形で旅券審査が始まったのか、はっきりとはわからない。でもふと頭に浮かぶのは、国外脱出できるようユダヤ人たちのために必死に査証を書いたという杉原千畝のことだ。やはり戦争がきっかけなのだろうか。いまでは顔写真や指紋までとらされて、旅行者はまるで犯罪者扱いされる。テロの時代のいま、日本にいるかぎり平和な感じがするけれど、それは錯覚であって、実は形を変えた戦時なのだとあらためて思う。この本を読むと、争いによって何が失われるのか、そんなことについても考えさせられる。
 歴史的人物がたくさん出てくるのも興味深い。リルケとパリを散歩したり、ダリと一緒にフロイトの死の床を訪ねたり、ロマン・ロランと励ましあったり、ゴーリキーに序文を書いてもらったり、シュトラウスとオペラをつくったり。ロマン・ロランは戦時中、負傷した兵士のためにボランティアで手紙の代筆とかやってたらしい。徹底した平和主義者だったようだ。『ジャン・クリストフ』は高校生のときに読んで、文字通り息をのんだ覚えがある。この「ヨーロッパの良心」は、この作品によって「三重の義務を果たそうと試みたのである。すなわち、音楽に対する彼の感謝、ヨーロッパの一致についての信条告白、諸国民に対する省察への呼びかけである」とのこと。いま、もう一度読み直してみたくなった。
 2009年、争いのない世界に一歩でも近づきますように。がんばれ、ウクライナ!

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2008年11月20日 (木)

今年も絵本

 姪にあげるものを物色しに吉祥寺まで行った。足を棒のようにして、あちこちぐるぐると探し回ったあげくに(2時間!)・・・マドレーヌという絵本のキャラクターの人形を発見。この人形と絵本とおけいこバッグをセットで購入した。このマドレーヌのシリーズのことは、今日の今日までぜんぜん知らなかったんだが、実は日本に上陸してからもう三十年以上たっているらしい。アニメにもDVDにもなっていて、関連グッズもたくさん出ているのだった。そうだったのか。それにしても、ベルギー人の父のもとにオーストリアで生まれた作者がアメリカに移住してから書いた作品の舞台がパリ・・・って(笑)。結果、絵はヨーロッパっぽいが、キャラクターの性格はアメリカっぽいような気がする。男性作家なのに、強くて元気な女の子像を描いているところがうれしい。私のときには絵本でこういうの、あんまりなかったような。とにかく、プレゼントが決まってほっとした。やっぱり今年も絵本になってしまったなあ。姪が気に入ってさえくれればそれでいいんだが・・・。
 ところで『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』って本、えらく面白い。アメリカには基礎学力が欠けている人が多いというのは知っていたけど、それは言葉や文化の壁をなかなか越えられない移民が多いからだろう、とずっと思っていた。でもこの本を読んで、実はそれより重大な原因があることを知った。他のテーマについてもいろいろ読める。おすすめ。

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2008年11月18日 (火)

百年の読書

 スケジュール帳に、また書きこんだJの文字。Jというのはジョギングの頭文字で、その日は走りましたよという印だ。ここ1年ほどは月に1回ぐらいだったんだが、ここのところ週一、多いときは週二ぐらいになっている。もちろん健康のためだけど、脳のためでもある。部屋にじっとしていると、いいアイディアが浮かばないから。
 さて、『百年の孤独』をやっと読み終えた。この本は多くの作家に影響を与えたとのことで、一度は読もうと何度もトライしては、挫折してきた因縁の小説だ。図書館で見かけるたびに義務感のようなものにかられ、そのくせ、まだいいや、と先延ばしにしていて、ずっと喉に小骨がつかえているようだった。死ぬまでに一度は読みたい本とか、そういうのとは違って、むしろ早くとりのぞいて忘れてしまいたい感じのする本だった。
 もう十年以上前のことだが、キョンキョンが雑誌で好きな本を紹介していて、その中の一冊に『百年の孤独』が写真入りで入っていた。ところがキャプションを読むと、いつか読みたい本です、と書いてある。読んでもいないのになぜ勧めるんだ、と笑いつつ、きっと私と同じドツボにはまってるんだな、と思った。合わない者にとっては、ひたすら退屈。これまではだいたい30ページぐらいで挫折していたのだが、今回は歯をくいしばって100ページほど読み進めたところ、戦争が始まる頃になってようやく普通に読めるようになった。でも本当におもしろかったのは、最後の20ページだけだった。最後まで読み切れたのはジョギングのおかげで心身ともに我慢強くなったからだろう、というのは冗談。豊饒な世界を構築しているのは本当だし、民間伝承や口伝えの伝統を取り入れつつ、マジック・リアリズムの名のとおり幻想をつづりながら現実を浮き彫りにし、芸術に昇華させたのもすごいと思う。昨年読んだ『コレラの時代の愛』のほうが感動したし、完成度が高いとも思うけれど、『百年の孤独』のほうが生命力にあふれていて、圧倒的にインパクトが強い。読むのに百年かかったような気のする読書だったけど、この二冊、無理してでも読んで損はなかった、です。マルケスにとって、愛は死出の旅なんだな。そうだよね。愛の成就は、いつも深い恐怖と背中合わせだもの。

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2008年4月 6日 (日)

わたしの名作

ひとりで勝手に古今の海外文学ベスト10(順位なし)

『ビラヴド』(モリスン)
『城』(カフカ)
『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー)
『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)
『マルテの手記』(リルケ)
『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン)
『ガリヴァー旅行記』(スウィフト)
『スローターハウス5』(ヴォネガット)
『白鯨』(メルヴィル)
『老人と海』(ヘミングウェイ)

 念のため割愛したのは、『カラマーゾフの兄弟』『風と共に去りぬ』『ベニスに死す』『緋文字』『悪童日記』『わらの女』『見えない人間』『崩れゆく絆』『神曲』『オン・ザ・ロード』など。ちなみに児童文学は除く。ううむ、何かを・・・何かを・・・忘れてる気がするっ。いや、そんなことより、おいおいヴァージニア・ウルフも読んでないのかい。せめてスタンダールぐらい読んだらどうだい、自分(恥)。

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2008年4月 4日 (金)

最近の読書3

『二葉亭四迷伝─ある先駆者の生涯』(中村光夫著)を読んだ。
 正直言って、二葉亭四迷の作品は読んだことがない。作品よりも伝記を先に読んだのは初めてである。しかし作品を知らなくても、人生そのものが小説のような一つの作品のようであり、非常におもしろく読めたし、深く心に残った。彼の挫折の人生には、共感する部分がおおいにある。挫折の人生、と言ったが、それは彼自身がそう信じて苦しんでいたのだ。文学史に残る偉業をなしとげた高名な人がなぜ、と不思議に思われるかもしれないが、この自己否定の性格が彼の作品と人生を生みだし、彼自身を追いつめたのだった。生めば生むほど追いつめられていくクリエイターなんて、悲劇そのものではないか。じっさい、客観的に見ると、その公的な人生は「支離滅裂」と言っていい。まず国際情勢に深く興味を持って語学にいそしむところから始まり、そこからロシア文学を通じて文学にのめりこむが、なぜか途中で放棄して役人になり、次はひょいっと実業家や教育者となるが、それからやっぱり文学もやって、でも結局はなぜか語学にもどる。しかもしょっちゅう住居を変え、家族さえ変える。この流れを見ると、物事の表面にしか興味がない人は、きっと二葉亭は信念に欠けているか、あきっぽい性格だと思うかもしれない。しかし実態はむしろ逆であり、貫くべき信念が強すぎるためにこういうことになったのである。高邁な理想を周囲だけではなく、自らにも課したために、自分が選ぶ環境も含めた、自己表現のすべてを否定し続けねばならなかった。「自分に受け入れてもらえない自分」という重荷を抱え、まるでウロボロスが自分の身を食い尽くしていくように、自己をいじめ続けた。彼の混乱した人生は、内面の状態をそのまま表しているようである。
 まず言文一致体という得難い実りを生んだ人生のスタート時はよかった。これまでの伝統や世の中の趨勢を否定するような試みをおこなうのは、よほどの信念と勇気がなければできないことである。しかし本人はその成功を受け入れられない。それをさらに発展させようという姿勢がとれないのである。彼は自己否定を続け、のちには言文一致体をすら否定しはじめる。そうしてすべてを捨ててロシアに旅立つ。外国に行くことで新しい自分に生まれ変わりたいと願ったのだろう。まったく文化の違う環境に放りこまれることで、自己に革命を起こすことができるのではないかと。しかし結果として、おそらく日本人としてのアイデンティティをかえって強烈に自覚するようになったのではないだろうか。このときロシア語で作品を書いていたら、また別の展開になっていただろうと思うのだが、彼はそうしない。すべてを否定しても唯一愛し続けることができたものは祖国だけだったというのは皮肉な話である。こうした彼の人生の流れを見ると、その自己否定は強い自己愛の裏返しであることがわかる。彼の文学も社会批評もそこから生まれているのである。だから世間や時代との間に齟齬が出て、どんな枠の中にもおさまりきれず、すさまじいまでの破壊力を持つにいたるのだ。愛に飢えるがゆえに犬に異常なほどの執着を示すにいたっては、読んでいるほうも胸が痛む。そうして彼は、最後には自分を破壊してしまった。私が彼に共感と畏敬の念を抱く理由は、そのへんにあるのかもしれない。

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2007年11月19日 (月)

『オン・ザ・ロード』(ジャック・ケルアック著 青山南訳)

 赤ん坊はじっとしているとそれだけで泣き出すが、体を揺らしてやったり、景色を変えてやると泣きやむ。変化が起きないと恐がるのだ。登場人物たちがこれに似ている。とにかく移動ばかりしていて、それも何の目的もなく移動していて、自分をもてあまし、いつも金がない、女はどこだと言っている。さびしがりやで、大きな音が好きで、変わったものが好きで、トラブルを恐れない。まさに体の大きな赤ん坊といった感じ。と言うとしょぼいように聞こえるかもしれないが、とんでもない。むしろ根源的な人間の姿が描かれているのだ。こんなふうにして、人は何千年も生きてきた。山の向こうの、海の向こうの未知なる世界を求めて、いや実は母のあたたかい子宮を求めて、大騒ぎしながら旅をしてきた。そして、文学そのものがそういう旅だとも言える。どこか遠くにある見知らぬ何かに出会うため、人は読む。そして書く人の思いも無限のかなたへ旅をする。たとえばカフカは、一度も行ったことのないアメリカを舞台にした長編を書いたが、その作品がやはりこの世界文学全集に入っているというのは偶然ではないだろう。外へ向かおうとする一貫した視点が感じられる。個人編集ならではのよさだ。

この小説がすばらしいのは何より人間が生き生きと描かれている点で、出色はやっぱりディーンだ。ほとんど孤児同然の人生を送ってきたディーンのはちゃめちゃぶりが、この本を支えている。そしていろんなものにぶつかりたくて、ディーンと徹底的に関わろうとする勇敢なサル。これで二人が固い友情を誓いあってハッピーエンドに終わったら少しがっかりだが、そうはならない。どうなるかは本書を読んでほしいのだが、これがなんともリアルだったし、彼らの旅をぐっと引き立てる結果になっていてよかった。ふとアメリカで知り合った孤児の友人を思い出す。彼女もまた周囲の人々と温度差があって、悪意はないのに、なぜかいつもトラブル続きだった。そしてディーンのように、孤独な人間をかぎわけるのがうまかった。エリートになったり金持ちになったりすることだけが成功ではないことも知っていた。人は、あらゆる形で輝くことができるのだ。ディーンもサルも、この小説で最高に輝いていた。彼らは自分が時代に、そして死に追われていることを知っているかのように走り続ける。戦争のレスポンスとして書いたかどうかはわからないが、死はいまよりも確実に近くにあって、だからこそ生きることに熱狂し、前のめりに生き急いだのかもしれない。彼らは本当に輝いて見えるけれど、生き方はあくまでも不器用で、それが妙に愛おしくもある。また彼らのように輝くアメリカの若々しい光だけでなく、こわくなるほどの黒い影も書きこまれていて、彫りの深い作品に仕上がっている。

翻訳がすばらしくて、若者たちの疾走感を文章が邪魔しない。リズムがいいせいか、つまずいたり、引っかかったりすることはないし、言葉が物語より前にしゃしゃり出てくることもない。日本語がこれほど自然に破天荒なアメリカの若者と溶けあったことは驚きである。こうなると、読む人がしっかり熟睡して小説の夢を見られるように、完璧なベッドが用意されているようなものだ。だから読者はどんどんのめりこめる。いつしか文章を読んでいることを忘れ、ディーンの車に乗りこみ、匂いや温度や彼の孤独までを感じる。五十年も前に書かれた本なのに、まったく古さを感じさせない。「本物」を読んでいる、確かにそういう満足感を得られた。

あせりを感じて落ちつかない人、閉塞感を持っている人、悲観的な気持ちになっている人、みんな本書を読むべきだ。きっとパワーがわいてくる。女の子でも大丈夫。むしろ、男は本来こういうものだと頭にたたきこんでおいたほうがいい。

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2007年10月13日 (土)

さんざん

 昨日は久しぶりに牡蠣にあたって、さんざんだった。もうしばらく貝類は見たくない。おかげで今日は食欲もなく、一日ぼうっとしていた。そんな中、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』を読んで、その深い味わいに、んむう、とうなった。やはり小説は人生を知っている人に書いてほしいものだ。
 さて本の見返しを見ると、案の定、著者の顔写真が載っていた。いい感じに年を重ねてきたような、味わいのある顔。期待を裏切らない顔に、ほっとする。これはいつも思うことなのだが、作家の顔写真はいったい何のために必要なのだろう。今回のように本の内容と顔の雰囲気が一致している場合はいいが、全体の三割ぐらいは「見なきゃよかった」と思わされる顔だ。不細工かどうかが問題なのではない。困るのは、作品の雰囲気をぶちこわしにされるときだ。シャープな文体なのに顔ははれぼったいとか、シリアスな内容なのに顔はコミカルとか。個人的には、作家の写真は不要では、と思うのだが、それでも多くの読者は、顔を見てみたいという好奇心には勝てないのだろう。
 どっちにしても、表紙の見返しに写真を入れるのはやめてほしい。ぐぐっと本を開くと、ときに著者の片眼だけがこちらを凝視しているような格好になり、落ち着いて本を読んでいられない。壁に人間のカレンダーやポスターが貼ってあるだけでも落ち着かないのだ。ついじっと見つめ返してしまう。といっても特に私が神経質なわけではないと思う。たとえば雑誌の表紙はどれも人の顔であることが多いが、これは、そもそも人間は人間の顔に注目する習性を持つからなのである。だから、どうしても作家の写真を入れるというのなら、逆に表紙に大きく入れたほうが人目を引いて売れるのかもしれない。でも本屋に行ったら人気作家の顔だらけ、なんていう日が来たら、もう行きたくなくなるかも?

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